人口の変化で将来どうなっていくのか。そして、どのように切り口でかんがえるべきか。また人口の数の変化で何が変わるのか。人口についてどのように変化して考えた歴史があるのか。地域ごとの人口の変化を調べてみたので、まとめてみました。

目次
1章.人口の見通し
➀年代による見通し
【2050年】●食料争奪戦【2060年代】【2100年】
②人口の変化により起こる問題

2章.人口のフレームワーク
【エコロジカル・フットプリント】【エネルギー消費量】【国内総生産】【人が集まってくる根拠】【移民】【高齢者の活躍】

3章.人口数による傾向
■➀人口数による変化■■②人口数を考えるためのフレームワーク■

4章.人口の歴史
【地球の誕生から現在の概要】【18世紀後半~19世紀】【19世紀後半】■1.都市の膨張■■2.移民■【1960年代】【1970年代】【1980年代】【1990年代】【2000年代】【2010年代】

5章.地域別の人口論
【千葉県】【船橋】船橋を巡る鉄道網【柏】

1章.人口の見通し

 現在(2015)は東京の人口は、日本全国の内の10%強のようです。※6

■➀年代による見通し■

【2050年】

 日本が人口減少する一方、相変わらず世界人口は増え続けて約100億人に。※4

世界は、2050年には90億人を超えるようです。国連推計では2050年は97億3000万にと推計しています。

そのため、世界の食糧生産は倍増が必要になります。※2※4

エコロジカル・フットプリントの容量も200%と予想されています。※5

 2050年くらいには日本の人口は1億人を下回る。※3

 1億人前後というデータもある。※6

 国土交通省の無人地域の発表は62%。

 人間が生活をしている38%の地域でも、その六割に相当する地域では人口が半減するようです。電気、水道、道路のなどの社会基盤、学校、公民館、図書館などの公共施設の維持が困難になるし、民間の商業施設も商売ができなくなるようです。※6

●食料争奪戦

 農水省「2050年における世界の食料需給見通し」(2012年)は、2050年時点での世界人口を養うために要する食料生産量を2000年比で試算しています。それによれば、1.55倍に引き上げなければならないというようです。それはつまり、日本がこれまで通りの食料輸入を続けられるか分からなくなるということのようです。

日本の需給状況についても分析していますが、人口減少の影響で需要量が大きく減る一部品目では輸出に転じるものも出てきますが、穀物の輸入超過構造は続くと分析しています。米などの品目別に見れば例外は存在しますが、国家単位で食料確保を考えたとき、2050年頃の日本が世界的な食糧争奪戦に巻き込まれることは避けられないようです。※4

【2060年代】

 世界人口は2060年代には100億人を突破すると予想されています。※2

 日本人口は2060年には8700万人になると考えられています(1950年代中ごろと同じ水準、この仮説は合計特殊出生率が現状の1.40前後と仮定した場合)。

【2100年】

 国連推計では112億1000万人と見積もっています。※4

 108億5000万人を超えるというデータもあります。※2

 日本人口は6400万人(4960万人とも:合計特殊出生率が現状の1.40前後と仮定した場合)と昭和初期の人口水準になります(但し15歳以上13%で65歳以上が33%と内訳は違う)。※6

■②人口の変化により起こる問題■

 ・労働力不足。

・スポーツの競技人口減少。

・高齢者比率の増加。

年金、医療、介護などの社会保障給付費が急増し、経済成長を率を上回るようです。

・無人の地域が増加。

 電気、水道、道路のなどの社会基盤、学校、公民館、図書館などの公共施設の維持が困難になるし、民間の商業施設も商売ができなくなるようです。

・国防にも影響。

 外国資本が土地購入し、違法上陸が起こるようです。※6

2章.人口のフレームワーク

 人口論について考える切り口を紹介します。

【エコロジカル・フットプリント】

エコロジカル・フットプリント(生態学的足跡)とは、地球の陸地と水域がもつ生物生産力に着目し、それぞれの地域で進行中のヒトの生き方を持続させるのに必要な陸地・水域の面積のことです。※2

具体的には人間が生存するために占有する空間を、1人1日について計算した数値です。※5

1970年の時点では、エコロジカル・フットプリントは環境容量より少なかったようです。しかし、2008年にはエコロシカル・フットプリントをはるかに超えているようです。※2

日本の生活水準では平均4.3ha(1ha=10000㎡)が必要です。

日本国土面積は約3800万haで領海面積は約4300万haであり、日本人口1億2800万人で割り算をすると0.6haとなり、日本の生活水準は4.3haなため、残りの3.7haは海外の土地や水面を借用しているようです。

世界生活水準の平均は2.7haと考えられ、人間が普通には利用できない空間を除外した地球の面積を世界人口で割り算すると2.1ha超過する結果となるようです。※5

【エネルギー消費量】

 エネルギー消費量(1人が1日に使う)は、1万円前は2500キロカロリーと肉体維持が中心で、現在は世界の平均は約25万キロカロリーが生活を成立させるために必要と考えています。※5

【国内総生産】

50%から60%は家計消費支出であるから、人口が増加しなければ国内総生産も増加は鈍化するようです。国家の基本である人口と経済が増加から減少に転換したという事が日本の直面する第一の変化であるといいます。※6

【人が集まってくる根拠】

 ➀規模の経済

  集まれば集まる程必ず良い事があるという原理のようです。商店、就業の機会、教育の機会なども人が集まっている場所ほど有利という感じです。結局、集まっているところに、さらに集まるという原理です。※7

 ②情報の入手

  国土庁が首都機能分散を検討するために企業にアンケートして、なぜ東京に本社を置くのかと聞いたら、圧倒的に多い答えが3つあったようです。官庁情報が入手できる、マーケット情報が入手できる、同業他社の動向がわかるという3つで、それ以下はほんのわずかだったようです。※7

 ③無名の特権

  都市は自由を享受できる空間なのです。小さな集団だと、どうしてもお互いに相互監視をするようなシステムになってしまうようです。人口20万人前後まで相互監視システムが成立するようです。40万人くらい集まれば、空気が自由になるようです。※7

【移民】

 日本は外国人労働者と移民の比率が低い国のようです。※6

【高齢者の活躍】

 日本の平均寿命(2012年)には男性79.94歳(世界5位)、女性は86.41歳(世界1位)

のようです。健康寿命は男性4位で女性は2位になります。

 就業者数  60~64歳 65歳以上

  2002年  282万人  219万人

  2011年  450万人  308万人

3章.人口数による傾向

 講演会などの人口数によるスペースの広さは逓減する傾向にあるようです。

 またレジ一台あたりの来客数も逓減する傾向にあるようです(特に都市圏は休日の来客数が跳ね上がります)。

■➀人口数による変化■

【1-6人】

 組規模

【4-6人】

 班規模

【8-12人】

 分隊規模

【30-60人】

 小隊規模、学校の1クラス規模。

 小規模講演会室は70人くらいまでで160㎡。

【60-250人】

 中隊規模、学校の学級規模。

 中規模講演会室は120人くらいまでで146㎡。

【300-1000人】

 大隊規模、学校の全体規模。

 大規模講演会室は350人くらいまでで365㎡。

【500-5000人】

 連隊規模、2000-5000人で旅団規模。

 来客人数2000人前後は地方において800~1600㎡程度の小売店(一般専門スーパー規模)で起こり、都市圏だと1200㎡以下で起こるようです。

 来客人数3000人前後は都市において1200㎡以上で起こるようです。

 因みに1200㎡は地方都市のスーパーマケットの平均にあたります(都市圏平均が1037.8㎡、地方では1369.7㎡)。

 

【1-2万人】

 師団規模

【3万人】

 軍団規模

【5万人】

 軍規模。

 市が成立する条件は、人口5万人以上(合併時3万人以上)で、中心的市街地に全戸数の6割以上が集まり、商工業やその他の都市的な業態に従事する者(世帯含む)全人口が6割以上で、条例で定める都市的施設、その他の都市的な要件を備えていることが条件のようです(面積は無関係のようです)。※8

【10万人以上】

 総軍、軍集団規模

【40万人】

  40万人くらい集まれば、集団における相互監視システムがなくなり、空気が自由になるようです。※7

 ※軍の規模は※9参照、部屋のスペースは※10参照、来客人数は※11参照

■②人口数を考えるためのフレームワーク■

 パーソナル・スペース(personal space)という考えがあります。エドワード・T・ホールが唱えたようです。

  密接(intimate)は0-15cmは抱きしめられる範囲で、15-45㎝は手で相手に触れられる範囲です。個体(personal)は45-75cmは相手を捉えられる範囲で、75-120cmは超手を伸ばせば指先が触れある範囲のようです。社会(social)は1.2-2mで知らない人同士が会話できる範囲で、2-3.5mは公式な商談の範囲です。公共は3.5-7mは講演者と聴衆で、7m以上は面会の範囲です。

 他には人の大きさによって空間を定めた「スケール感」という考えもあります。※16

 1尺とは303mmの事です。

 そして1畳は3尺×6尺で人が横になれる大きさのことのようです。

 モデュロールは立つと頭までで6尺で、それプラス手をあげ分で1.5尺が足されます。また体育座りすると3尺になると考えています。

4章.人口の歴史

【地球の誕生から現在の概要】

 地球の誕生から現在までを1年に圧縮して考える方法があります(地球誕生を46億年前とすると1ヵ月は3.8億年)。

 1月1日0:00 地球の誕生

 11月末(4億年前) 生命が陸上に進出

 12月31日 すべての人類登場

  16:30 猿人 21:10 原人 23時頃 旧人

  23:30 新人(最後の0.05%)

 最後の1分で人口500万人から70億人(1400倍以上)になっています。※5

 マルサス(1798年『人口論』を執筆)は以下のように指摘しています。

  2000年前に約3億人、1世紀前(1700年頃)に16億人、50年前(1750年頃)に30億人

 、、、と等比級数で増加していると。※5

 江戸時代の人口の9割近くが農業をしていたようです。※12

【18世紀後半~19世紀】

 第一次産業革命が起っています。

 当時のイギリスでは蒸気機関の開発により、工場制機械工業が設立しました。蒸気機関の活用により、鉄道や蒸気船の整備も進み「交通革命」ももたらしました。

 モノ造りが人の手から機械へと移っていったことが最大の特徴のようです。※14

【19世紀後半】

人口の変化をフェーズで捉える考えでは、第四フェーズはヨーロッパ産業革命から始まり地球環境や資源の持続性から人口過剰と考えられ始めたのも20世紀後半からのようです。

この時期ヨーロッパの国々で、死亡率と出生率を劇的に変化させた「人口転換」が始まりました。人口転換とは、出生率も死亡率も高い「多産多死」から、死亡率だけが低下する「多産少死」を経て、最終的に出生率も低下する「少産少死」に移行するプロセスのようです。

このフェーズの「多産少死」の死亡率の低下には、農業生産性の向上による食物供給量の増大が大きな役割を果たしたようです。ヨーロッパの人口増加は大きく、その結果農村部から都市部への移住、海外への移住も増加したようです。※2

この時期の産業革命は第二次産業革命ともいわれます。

1865年から1900年くらいとも言われ英・仏・獨・米で始まっています。

化学・電気・石油などのエネルギーなどの技術革新が起こりました。また電力の導入により大量生産が可能となりました。工業用品だけでなく飲食料品や衣類などの製造も機械化が進む、消費財の大量生産の仕組みが確立されていきました。※14

■1.都市の膨張■

  農業も労働集約産業ですが、初期の工場はそれ以上の労働集約産業のようです。とにかく人が集まっているところに工場を作りました。するとその雇用力によって、さらに人が集まってくるという構造だったようです。主要な大都市はそのころから急速に発展しだしたようです。※7

1845年『イギリス労働者階級の状態』にてエンゲルスは、アイルランドやスコットランドから、ロンドンやマンチェスターに雇用を求めて人が大量に集まった様を、ブタと同居していると書いたようです。劣悪な環境で1つの井戸を共有するから、赤痢やコレラも大流行したようです。

この頃の英国大都市平均寿命は24-25歳で、田舎では50歳程度という開きがありました。※7

 米国は南北戦争後(1861-1865)、合衆国の都市は急速に成長しました。

 原因としては➀【生産力の変化】農業の生産力が上がったことで少ない数の農家で足りるようになったことと、②【仕事口の変化】新設の工場で仕事口ができたこと(この時代は都市に工場がありました)、③【物流】鉄道の建設が進んだため食料や工場製品が前より楽に都市に運び込まれたことが考えられるようです。※1

 補足として1863年に奴隷解放宣言により、黒人奴隷に変わる安価な労働力が求められ、1848頃のゴールドラッシュから増えていた中国からの移民が急増しています。※13

 また、④【働き口の安定性】1873年に不況が起こり天候に左右されない工場という働き先が注目された事や⑤【華やかさ】若い人たちには忙しい都会の雑踏やはなやかな照明は魅了的で、多数の人にとって都会には農村にはない出世と興奮の可能性がありそうに思えたことなどもあったようです。※1

 日本も明治維新後産業革命により、農業どころが人口が多かったのが、東京が短期間で巨大都市に変貌しました。※7

 ただ劣悪な環境も作り出したため、産業革命の集中に対する対策がとられ、「分離・純化」がとられていくようです。「分離」とは、工場と生活、商業と生活というものを切り離します。そして、切り離した部分はその機能だけに「純化」するという考えのようです。※7

■2.移民■

 19世紀後半期の産業中心地に人口増加をもたらした二番目に大きい原因となっているようです。

 1880年ごろから南欧や東欧からの移民が急速に増え始めたようです。ロシア・オーストリア・ハンガリー・イタリアなどがその主な出身国であったようです。

 

 移民の要因としては、➀【人口増加による変動】東ヨーロッパでは1880年にはほとんどの国では人口がふえ過ぎていて、政府も移住したがる者をそれ以上引きとめなくなっていたことや、②【交通の簡易化】19世紀も末近くなると汽船はバルト海や地中海の港にも通うようになり同時に大西洋を渡る船賃もかなり安くなったようです。

 また、ロシアからきた人たちは大部分が宗教のために迫害されたユダヤ人だったようです。イタリアからきた人たちは人口がふえるにつれて農家一戸あたりの耕地面積はどんどん減っていました。職人にしても工場が増えてしまい、また政治的自由や良い成功のチャンスを求めて移動してきたようです。

 そして移民はたいがい都市に落ちつくことになったようです。

 ただ、企業家は仕事の口よりも労働者のほうが多いことを知っていて、多くの会社が賃金をごく低くおさえたようです。※1

 日本においては1872年は人口3480万人(出生率16.3人)で、1880年の府県人口『第一回日本帝国統計年鑑』(1882年出版)においては東京の人口は96万人(全国17位)と全体の3%弱でした。※6

 これは農業社会で、米どころが人口が多い構造だったためのようです。しかし短期間に東京が巨大都市に変貌していきます。

 1884年に明治政府が日本国民の海外渡航を正式に許可したため、アメリカで移民が禁止された中国人に代わり、日本からの移民が増加したようです。※13

 1895年には日本は出生率が30人になっています。※6

1900年からヨーロッパで人口増加が減速して、ほかの多くの地域で加速という傾向がさらに顕著になりました。※2

1920年に日本は出生率は36.2人となり、1925年には特殊出生率(15-49歳までの女性が一生に産む子供の人数)5.11人となっています。※6

1930年の昭和初期の日本の人口内訳は15歳以下が37%、65歳以上が5%。※6

この年の人口は6445万人で、就業人口は2900万人で第一次産業は47%(半数くらいは女性)で第二次20%、第三次30%の割合。このように産業革命を行ったが日本は国全体を見れば貧しい農村社会であったようです。※12

1941年「ペティ=クラークの法則」が発表されます。

国家は発展するにつれて産業の中心が農業など一次産業から、工業などの二次産業に移行し、さらにはサービスなどの三次産業が中心になるという経験法則を発表しました。※6

1950年の1次2次産業の就業人口は65%で3次産業は35%です。※6

【1960年代】

1960年までには途上国は農業を含む産業の発展も、医療・公衆衛生活動の普及も、先進国で開発された技術を受容し、国内で活用させることで実現しています。

特に1940年代から1960年代の「緑の革命」が人口を支えるのに役立ったようです。※2

1960年前後には日本では首都圏に40万人くらいの人口が毎年流入超過でした。入ってくる人と出ていく人の差がプラス40万人(から60万人)でした。※7※6

1961年には世界人口は30億人となり地球が養育できるエコロジカル・フットプリントの容量の50%に達しているようです。※5

そして、1960年代後半になり、人口増加がヒトの生存を脅かすとの危機意識が世界中に広がり始めたようです。※2

【1970年代】

1970年の時点では、エコロジカル・フットプリントは環境容量より少なかったようです。※2

1972年、『成長の限界』(ローマクラブ)において、途上国における人口増加への警鐘が強調されたようです。※2

また男女雇用機会均等法が1972年に施行されます。※17

1974年には「世界人口会議」(初の国連主催)において「世界人口行動計画」が採択され、多くの途上国が家族計画に取り組む契機となったようです。※2

1975年には日本の特殊出生率が2.00を切ります。※6

1975年が「非婚化」と「晩婚化」が進む節目とも言われるようです。

1975年までは、ほとんどの人が結婚していただけでなく、結婚年齢のばらつきが少なかったようです。20代半ばに結婚していたようです。しかし75年以降、晩婚化が始まり平均初婚年齢は上がってきているようです。同時に20代初め、あるいは10代の「できちゃった婚」も増えています。

統計的に見て結婚年齢がばらつき始めたようです。ばらつき始めているなかで、全体的に平均して遅くなっているようです。

またしたくでもできなかったという非婚化も進んでいます。1975年の時点では2-3%の非婚率でしたが、結婚年齢がばらつくことにより、逆に、自分の思ったタイミングで結婚できるとは限らなくなってくると考えられるようです。※17

1970年代中頃にオイルショック以降(1975年)だんだん首都圏の流入が一気に減り、年に流入超過が5万から6万まで落ちたようです。※7東海(名古屋圏)や関西(大阪圏)は流出超過になっています。※6ただし減っている人数そのものはそう多くはないようです。※7

1975年の1次2次産業の就業人口は48%で3次産業は52%です。※6

また1970年代生まれの人たちを「ロスジェネ」とも言い、不況による就職氷河期の10年間に就職した世代のようです。この世代は経済格差による結婚のチャンスの格差も生まれてきているようです。※17

【1980年代】

 1980年代に就職協定が解除されます。※17

 1980年代中ごろ、日本の合計特殊出生率は1.81です。1983年くらいから日本のみが急降下する。また1980年頃、20代後半の未婚率は20%程度でした。※6

 1980年代中ごろ、東京はバブル経済のときに流入超過数が減っていたのが10万くらいまで戻りました※7

1986年には世界人口は48億人になりエコロジカル・フットプリントの容量は100%となります。※5

【1990年代】

1990年には日本は出生率は10人を切っています。※6

 日本における外国人労働者は1990年代に10万人前後とみられます。※6

1993年(~2005年)において求人が減少し、就活や非雇用者の増加が始まります。※17

1994年「世界人口開発会議」においては、国家主導型の人口抑制的なアプローチから、女性の性と妊娠・出産に関する自己決定権の尊重と、女性の地位向上を重視するリプロダクティブ・ヘルス/ライツへと、パラダイムが変化したようです。※2

1994~1995年、バブル経済崩壊後ついに、平時で初めて首都圏(東京)から人口が流出し始めました。数千人とか1万人くらいだけど、流出し始めたようです。※7

 1995年 日本人口が1億人を突破します。※6

 1998-1999年、小渕内閣において経済企画庁長官、堺屋太一が「人口の減少と国家の繁栄の関係を検討する研究会」を発足します。※6

【2000年代】

2000年の1次2次産業の就業人口は36%で3次産業は64%です。※6

2004年くらいに日本の特殊合計出生率の1983年からの低下が止まり維持されます。※6

2005年には世界人口は65億人になり、エコロジカル・フットプリントの容量は130%となり、30%の矛盾は毎年10億人が飢餓状態で生活し、そのうち1000万人以上が餓死することにより解決されているようです。※5

また日本の特殊出生率は1.26と世界174位です。※6

2005年国勢調査において未婚率は25-29歳で男71.9%女59%、30-34歳で男47.1%女32%でした。※17

男性の非婚率も2005年には15.4%となっているようです。※17

2007年、第一次安倍内閣(2006-2007)のとき、初代少子化担当大臣が任命されます。※6

2008年にはエコロシカル・フットプリントをはるかに超えているようです。

日本人口は1億2800万人と頂点になり、以後減少しています。※6

【2010年代】

2010年の1次2次産業の就業人口は33%で3次産業は67%です。※6

2010年の日本の無人地域は52%(国土交通省)。※6

2012年の日本の合計特殊出生率は1.42でした。※6 

 日本の外国人労働者は70万人以上(労働者数全体に占める比率1.0%、総人口に対する比率1.1%)のようです。※6

2014年

 2月内閣府は15年から毎年20万人の移民を受け入れれば人口は一億人以上を維持できるとしました。※6

5月日本創成会議において、消滅可能性都市の報告によると、2040年までに消滅する可能性があるとして社会に衝撃をもたらし、人口減少が真剣に検討されるようになったようです。

12月には人口減対策長期ビジョンと総合戦略が発表されます。

2060年に8700万人程度になる人口を一億人に維持するという目標設定をしました。合計特殊出生率を20年に1.60、30年に1.80とし、40年に人口を維持できる最低限の2.07を目指すとしているようです。施策としては東京一極集中の是正、若い世代の就労・結婚・育児の希望の実現、地域ごとの課題解決。※6

2015年頃には20代後半の未婚率が60%になります。※6

第四次産業革命が今後起こっていくと考えられています。

知識集約産業で、主に技術開発を中心とした産業であるため、物質やエネルギーの大量変化(消費)を伴わないことが特徴のようです。※14

5章.地域別の人口論

【千葉県】

人口 628万4573人(日本人口1億2512万人の約5%)

 男性 311万人で女性316万人

 過去1年間の人口増減率+52人

 外国人は14万人(2.2%)

※『千葉県毎月常住人口調査月報』総合企画部統計課2021.6.30発表し6.1の現状報告

年代別推移

 1920 133万人(日本人口5600万人、2.3%)

 1961 230万人くらい(9406万人、2.4%)

 1974 400万人超(1億102万人、3.6%)

 1983 500万人超(1億193万人、4.1%)

 2011 630万人位ここから減少増加するも横ばい(日本は2008年が頂点、約5%)

人口密度は東京より程多い

※『平成31年・令和元年千葉県毎月常住人口調査報告書』2020.2.27発表 総合企画統計課より

船橋】

2021.10.1 人口64万人(千葉県の10.2%)

※『千葉県毎月常住人口調査』より

年代別推移

 2011 61万人(県630万人、9.6%)

 2015 62万人

 2017 63万人

 2020 64万人(男49.8%、女50.1%、外国人2.9%)

  千葉県が横ばいしてるのに対して船橋は増加しています。

※『船橋市HP・人口統計資料』より

船橋の歴史

 1868年 戊辰戦争として船橋市川の戦い

 1873年 明治天皇が大和田原で近衛兵の演習を観閲、「習志野ノ原」と命名

 1889年 船橋町と葛飾・八栄・塚田・法典・二宮・豊富の6村が成立

 1894年 総武鉄道(市川~佐倉)開通、このとき正岡子規が佐倉までいっています。

     船橋駅開設しています。

 1901年 船橋沖で海苔の養殖が始まる

 1909年 東葛人車鉄道 中山から八幡、鎌ヶ谷、白井、木下を結び利根~江戸川の運搬をショートカットする鉄道として作られました。

 1915年 塚田村行田新田に海軍の無線電信所が建てられました。

 ※船橋郷土資料館の展示物参照

船橋を巡る鉄道網

【1・中山~鎌ヶ谷~木下】

   1909年 東葛人車鉄道 中山から八幡、鎌ヶ谷、白井、木下を結び利根~江戸川の運搬をショートカットする鉄道として作られました。

【2・土浦線~金町~中山~船橋】

 1916年 京成電気軌道(中山~船橋)開通(京成電鉄)

 これは日本鉄道の系譜と関係するもので、日本鉄道は国道17号は中山道(江戸~高崎)と三国街道(高崎~長岡)を合体させたものです。

 その沿線として1883年日本鉄道(華族出資の民間鉄道、岩倉や高島嘉右衛門も出資していて渋沢栄一も関与しています)が上野~熊谷開通し上野・浦和・上尾・鴻巣、熊谷が登場しています。

 1897年には、日本鉄道は土浦線(後の常磐線)を開通すべく金町を開業します。

●帝釈人車鉄道から京成電気軌道

更に、1899年には柴又帝釈天への参詣者が増加し、帝釈人車鉄道が開通しています。1911年には京成電気軌道株式会社が買収しますが、最初は人車軌道で運営していました。その後、1915年に電気軌道になり中山駅まで開通します。

このときには、中山~鎌ヶ谷~木下まで続く人車鉄道が1909年からまだ運営していて繋がる形となります。

そして1916年中山~船橋に京成電気軌道が拡大されます。

【3.柏~船橋】

1911年 千葉県営鉄道(wiki東部野田線より)

 野田~柏(旧・東葛飾郡千代田村)

 柏には土浦線の常磐線貨車の乗り入れがあり、野田の醤油醸造業者から舟運(江戸川)だけの不便さから設立されました。

1908年 第11代千葉知事・有吉忠一が「県下の道路事情の悪さおよび他県に比べて鉄道の敷設が著しく遅れている事から、地域開発のために県内各所を連絡する必要があるとして建設を推進した。千葉県には道路修善に適した砂利が産せず県外の割高な砂利を購入しなければならなかった。このため、建設費の安い軌道・計便鉄道に注力したようです(wiki「千葉県営鉄道」)。

 但し、野田線と柏駅との連結から同じ軌道を考えることになったようです。

具体的には有吉が県内の主産業である野田の醸造業を視察しました。そして鉄道連隊(習志野)の蔵にレールと機関車がしまってあるのを聞き何とかうまく使用したいと考えていた処へ七郎右衛門から話がでたようです。

1914年5月9日に開通しています。

14.3キロで柏―野田間で柏・豊四季・初石・運河・梅郷・野田の6駅でした。

1922年4月に野田醤油醸造組合が、北総鉄道株式会社を設立し、柏―船橋間の延長を条件に県から払い下げを受けました。

1923年、船橋―柏間は鉄道第二連隊が演習として引き受けました。同年12月27日に開通しています。

1930年、11月1日柏―大宮間が全通しました。鉄道は下総から武蔵に通じることで、社名が不適当になり総武鉄道と改名しました。

1944年政府は国内戦時体制をかためる鉄道の合併を進め東武鉄道に合併しました。

1985年3月1日にしょうゆ輸送は終わりました。しょうゆはトラック輸送が中心になり、東武野田線は乗客輸送専用線となりました。

「野田線」と称されるのは、野田の醸造化による建設と経営、主な荷がしょうゆであったことによるようです。

【柏】

➀前史~柏駅の設置(1896年)まで

   江戸前期のことではあるが、手賀沼近くを通っていた水戸街道が、現在の旧水戸街道に付け替え・人家移転が行われ、その前後に「柏村」が独立した村として成立した時期となります。ただし1888年明治政府、市制・町村制を施行し、町村合併を推進し、1889年医は合併し千代田村へ編入されています。

②1896-1955年の駅前大火事まで

 1954年 4万5千人(市制施行)

 1955年 45020人(外国人253人)

③1955-1973年の東口再開発まで

 1965年 109237人(外国人292人)

④1973年の再開発について

 1973年 柏駅周辺が大変貌を遂げるきっかけとなった柏駅東口市街地再開発事業。

 1975年 203065人(外国人412人)

1985年 273128人(外国人667人)

1986年 常磐自動車道開通、「特急ひたち号」停車、バブル経済の始まり

1989年 人口30万人

2004年 334042人(外国人464人)

2010年8月 人口40万人

外国人について

 柏駅前のイラン人は1985年9月ニューヨークプラザホテルで開かれた先進五か国大蔵大臣中央銀行総裁の間で合意した円高指向に対し、アジア各国から観光ビザで働く労働者が多数入国してきました。当時の日本はバブル経済時代に入り、単純労働者は引く手あまたでした。

 バブル期の日本の実質賃金はフィリピンの23倍、中国の42倍、バングラディッシュの80倍でした。

交通について

●常磐線

 1890年、好間炭鉱を経営する白井は川崎八右衛門(川崎銀行)、浅野総一郎(常磐炭田最大の小野田炭鉱の経営者で日本セメント創立)、渋沢栄一の同意をえて、日本鉄道社長小野義真と相談した。計画はその名も常磐炭鉱鉄道としたことに始まります。しかし、鉄道長官井上勝は資金難を理由に受け入れなかったようです。

 1893年、井上は小野に、鉄道会社として建設する事をすすめました。常磐炭の輸送という固定貨物にあった浅野らと相談し、採算がとれることを確認しました。

 その上で、日本鉄道(東北本線)の支線である海岸線にすることを決めました。

 1905年4月1日、上野を発車した列車は開業当初は田端で機関車を付けかえ、スイッチバックをしなければならなかったようです。この不便解消のため、日暮里に起点をあらためました。このとき三河島駅は新常磐線と田端への線路の分岐点として設置されました。三河島駅と田端駅間の貨物線のレール(日暮里に向かい右側)は昔の常磐線の名残のようです。

 1906年日露戦争後、「鉄道国有法」公布され、国有鉄道となったようです。このとき、日本鉄道海岸線は常磐線と改称されたようです。

 1913年、上野-我孫子間(複線化)し石炭輸送の効率化にあったようです。

●東部野田線

 船橋―柏―野田市―大宮間の62.7キロを結ぶ鉄道で柏駅はスイッチバックの線路であるため、上下線とも同じ方向に発着します。沿線に開発された住宅地から、通勤、通学、そして柏への買い物客を運びます。

※『かしわの歴史―柏市史研究創刊号―』平成24(2012)年3月30日、柏市史編さん委員会、柏市教育委員会参照

『柏 その歴史・地理』相原正義、2005.3.20、崙書房出版

【参考文献】

※1…『アメリカⅡ その人々の歴史』ヘンリー・F・グラフ(訳)有賀貞ら、帝国書院、1982。9.10

※2…『ヒトはこうして増えてきた』大塚柳太郎、新潮社・2015.7

※3…野村證券、2021.10

※4…『未来の年表』河合雅司、講談社、2017.7.1

※5…『100年先を読む』月尾嘉男、2011.12.1、モラロジー研究所

※6…『日本が世界地図から消滅しないための戦略』月尾嘉男、2015.5.20、致知出版社

※7…『東大で月尾教授に聞く!IT革命のカラクリ』月尾嘉男、田原総一朗、2000.11.20、アスキー

※8…https://www.homemate-research-public.com/useful/shityoson-joken/

※9…Wikipedia「軍の編制」

※10…https://www.krp.co.jp/kaigi/room/choice.html

※11…https://www.j-sosm.jp/numeral/2017

※12…https://www.google.co.jp/amp/s/ascii.jp/elem/0000/001/163/1163539/amp/

※13…https://www.us-lighthouse.com/life/japaniese-american/history-of-japaniese-americans.html

※14…https://coeteco.jp/articles/1011

※15…ウィキペディア「パーソナル・スペース」

※16…『建築のスケール感』中山繁信ら、2018.4.21、オーム社

※17…『「婚活」時代』山田昌弘、白河桃子

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